気が気でなければなんなのさ

揉んでも硬くなるばかりでどうにもならぬことだってあるのだ

日記181027

最近発見したスヌープ・ドッグのゴスペルのアルバムが良くて聴いている、特に7曲目のSavedという曲がよく、曲そのものもいいし、救いというタイトルもいい。みんなで歌ったりみんなで太鼓を叩いたりすると大変うれしくなるな、と思ったことは以前にも書いたけれども、これはこう、どのへんからやってくる感覚なのかは少し不思議に思うところである。しかしあのゲットー出身の、札付きのギャングスタが「Life now is sweet and my joy is complete」なんて歌う曲を出すとは誰が思っていただろうか。ちょっとウィードでも焚いてハイになっていないと書けなさそうな歌詞である。ポッキーのCMに「じょいふる」が使われるこの国ではJoyの恩恵にあずかることそのものが善いとされているかというともしかしたらそうではないのかもしれない。油汚れを落としたり除菌ができることはたいへんな喜びであり、救いであるから、わたしたちはそれを受け入れることが生きる上で肝要なのです。

 

ハロウィンを前にして週末の渋谷は百鬼夜行とはいかないまでも、おおよそ十鬼夜行くらいになっており、コーヒー豆を買い、新型のiPhoneを眺め、一通り酒を飲んでからセンター街に出ると人間や、人間ならざるものや、本来ここにいてはいけないタイプの人間や、人間の文明を象徴するものの一つである衣服の持つ記号性をバグらせた生き物たちがウゴウゴしていた。コンピュータ・プログラムのフリをするものもおれば、一度も死んだことがないのにゾンビになっているものもおり、頭だけ犬になるものもおれば、白衣にSWATの腕章をしてスクランブル交差点を歩いているものもいて、収穫祭の意味合いもケルト民族の考えていた魑魅魍魎どもの面影を一つも残さず木っ端微塵にした要望たちが群れ歩くさまは逆に清々しく、わたしは魑魅魍魎の字をたぶん生まれてこの方一度も手書きしたことがない。

カフェインがなければすっかり動かなくなっている身体に住んでいるものだから、カフェインを摂取するモチベーションを高めなければならず、カフェインの語源であるところのコーヒーを毎日飲んでいると安い豆の不味さが気になってくるものだから、まずは禁煙して「味覚が鈍ってるだけじゃねえのかそれは」という声を黙らせてから安物のコーヒーミルを買い、せっかく渋谷にでたのでヒカリエの下のちょっと洒落た店で、コーヒーも飲まずに豆だけ買い、その後飲みに行って遅く帰ってきたのでその日はコーヒーを飲まないまま眠りにつき、翌日になってお湯を沸かし、ごるりごるりと豆をひき潰し、コーヒーを淹れて飲むまでに7回くらい「これは無駄遣いではない、前からやりたかったし」と唱えた。

ケータイを見に行くとインターネットショップで買うよりずいぶん高く、うっかりおもわず手を滑らせて下取りに出す予定のiPhoneの画面を割りかけながら口を滑らせて「えっそれ店舗で買うのは一体どういうメリットが」と聞いてしまい、「ぶっちゃけ自分で設定できるなら人件費払うだけ損なのでウェブで買ったほうがいいですよ」と言われてやや後悔した。自分がもっと、ほんとうの意味でケータイを必要としている、とおもう、おぼしき、アニメを見たり漫画を読んだりエロ動画を見たりするためではなく、必要不可欠な連絡を取りあうためにもぜひ、現代社会で生き抜くためのインフラとして使い方に不安を覚えつつもおそるおそるケータイに手を伸ばし、そのために手助けを必要としている人々のことを全く考えておらず、あまつさえ引きこもりであるため「まあ数日待つけど出かけなくても家に届けてくれる方がいいじゃん」などと思ってしまっていた自分を割と恥じた。