気が気でなければなんなのさ

揉んでも硬くなるばかりでどうにもならぬことだってあるのだ

日記181114(話題の気ままな移り変わりと、そこそこのネタバレを含む表現)

タイトルのないブログを延々書いていると当たり前ながらどの日付にどんなことを書いたのかすっかり覚えていないから、後から覗いたときに何がでてくるかわからない楽しみがあり、その5倍くらい不便だし、いちおう公開されている文章だから内容の要約くらいはタイトルにおいておいてもいいのかもしれないと思うものであります。

無機質であることがいいことなのか悪いことなのか、ということは保留にしましょう。

また、一般的に無機質と言われている状態が本来の意味で、本当に無機質なのかということもまた保留にしておきましょう。

それから、先ほどの文章において発生した「本当の、本来の意味とはなにか、もしくはそれ以外の『仮の意味』の発生とは?」という疑問もまた、思い切って保留にしておかなければならないでしょう。わたしたちはこれを本当に惜しんでいます。

なんにしても、キーボードによって打ち出される文字群は比較的、無機質といえる性質を保っていて、これは嬉しく、そして嬉しいときにわたしたちはそれなりのことを見落とします。嬉しいので見落としてもとくに致命的な問題は発生しませんが、見落とすことを嬉しくは思えない人もいます。こうした文章もまた、キーボードの赤軸に被さっているカバーをぱたりこぱたりこと叩くことで、MacBookBluetooth接続されたキーボードが電波を発し、MacBookが今度は無線LANを通じてワールド・ワイド・ウェブの中からすくい上げたはてなブログのページを表示させているので、そのうえに電波が発された順にゴシック体を貼り付け、そうした様がMacBookからHDMI接続されたディスプレイによって可視光線の集まりとしてあらわれ、それをJINSで一万円した眼鏡がわたしの衰えきったピント調整機能を補うように歪めることで、文字としてわたしの前に立ち現れています。たいへん回りくどいことであると思います。

ゴシック体です。ゴシック体が本来の意味でゴシックであるのかはよくわかりませんし、それによって気を悪くするゴート人も、もしかしたらいるのかもわかりません。ドットの集まりであるディスプレイでの表示を前提としたデザインで使われる書体はゴシック体が望ましいと言われています。明朝体では細い横線がドットの隙間に落ちてしまうことがよくあるからだそうです。近頃のスマートフォンは一つのドットが大変に細かくなったので、ようやくWikipediaなんかは明朝体で表示され始めていますね。とにかくゴシック体で、筆で書かれた文字を原型とする明朝体に対して、わたしたちはゴシック体を書いたことはありません。明朝体のようなぴっちりした字を書いたこともないのですが、ゴシック体はなおのことありません。あります。つまらない授業中にノートの端っこに特に意味のない言葉をゴシック体やHelveticaFuturaなどの書体を見よう見まねで落書きするのが好きでした。悪趣味な子供ですね。

先ほどたいへん回りくどく、プラスチックのキーを叩いてから(全く鍵の形をしていないものをキーと呼ぶのも不思議な感じです、セキュリティなど皆無ではありませんか)、画面にゴシック体が表示されるまでの様子を書きました。各部分が器官としてオーガナイズされ、無機質な文字を場合によっては有機ELの画面に映し出すさまは美しく、対して紙と鉛筆の文字はたいへん簡素な仕組みで書かれます。紙は有機物です。黒鉛はほとんど炭素であるにもかかわらず、ほとんど炭素であるがゆえに無機物です。ペンを持つ手は有機物であり、運動して紙に黒鉛をこすりつけますが、運動は乱雑です。よって字はたいへん汚いものになります。マンブルラップのぐずぐずの発音や、イギリスの労働者階級の人々が話す英語のすっ飛んだtのように、様々な部分が有耶無耶にされ、省略され、それでも未だに消しゴムの出番が来ないのは、何となくそれとわかる形がどこかに残されているからです。物事は前後から判断されます。文脈によって判断され、文脈を構成する事実群が更新され任意の事実AがA'として新たな意味を持ったとき、しばしばそれは真実とも呼ばれます。

どこからどこまでのことを「文脈を構成する事実群」として取り扱うべきかはかなり新潮な議論が必要です。それはあれに影響し、あれはこれに影響することで、蝶は大風を起こし、大風は大桶屋を大儲けさせるからそういった影響の網を人間のひとりがすべて把握することはとうてい無理であり、にもかかわらずどうにかこうにかそういったものの中から物語を編むことでしか人間は世界を認識することしかできないのが困ったところです。各々が星空を見上げてはめいめいのオリジナルの星座を生み出しています、さんかく座を見つける人もいれば正二十面体座を見つける人もいるでしょう。二次元として捉えられる天球面の上に立体物を見つけてみたら実際の星々の奥行きを含めた位置関係はもっと奇々怪々としたものになっているに違いありません。

ついに失ったと思えるものはもしかしたら位置関係なのかもしれません。平生光速で8分かかる距離から届く核の炎のエネルギーで洗濯物を乾かしているわたしたちが、それとは逆の反応によるエネルギーの発生と、それに伴う諸現象にかんしてたいへんデリケートになっている、ように見えることは、先日やったデトロイトビカムヒューマンにおいてDirty Bombの訳が「化学兵器」になっていたことからも伺えます。同時に原文の訳も手に入れています。それは表現が表現者の意志とは別の都合によって書き換えられたということをどうしても認識せざるを得ないということですし、あまり良しとしづらいことです。ともあれ、原文の訳を手に入れてしまった以上、そちらを尊重せざるを得ません。

プレイ中、原文がDirty Bombであるのに気づいたのは、あろうことか「化学兵器」が大爆発を起こし、紫よりもっと紫色をした光が街のいたるところを照らしはじめてからでした。そうしてから、「原文を知っていれば兵器の起動をもう少し迷ったかもしれない」と思ったのです。死の街を作るのが毒ガスであろうが放射能であろうが、結果は似たようなものであるはずなのに、後者をどうしても大きく見積もってしまうところに不思議な感覚があります。ぎょっとすることです。タブーと感じることです。それについて語るときには大いに配慮が必要であると感じることであり、ときにそれを避けようとすることです。気持ちのうえではぎょっとしながら、合理的な考えがそれに合致しない時、どうにも居場所のないような気持ちになります。居場所がないのだからGPS上にわたしの位置情報を表示することはできませんし、グーグルマップに目的地との位置関係を元にルート検索をお願いすることもできません。

作中、「化学兵器」の起動は自爆テロとしてではなく、種族としてのアンドロイドの独立と開放へのきっかけとして行われます。その後の人類はそれまでの帝国主義的ともいえる振る舞いをどう振り返るのでしょうか。