気が気でなければなんなのさ

揉んでも硬くなるばかりでどうにもならぬことだってあるのだ

日記180828

面白い夢を見たらメモをとっておくことにしており、たまに見返してはニヤニヤすることにしている。ニヤニヤすることは健康に良い。笑っているからである。昨年医者に行って眠剤を処方されたときに「副作用として悪夢を見ることがあるかもしれません」と言われたことがあり、悪夢にうなされては結局睡眠の質も上がらんではないかと思ったが、まあなんか変なものが見れるのでは良いのではないか、と思って「なるほど了解です」と答えたことがある。

すべてはVR空間にあり、私はわたしであると思いこんでいる上に、この方世を支配してきた様々な法則、規範、制約などに平気で矛盾をきたしているものについて、少なくともその空間にあってはわたしは一切疑問を持たずに、それはそのものであり、当然であるものとして受け取っている。全く聴いたことのない万博がロンドンで開催され、そのロンドンにはビッグ・ベンも二階建てのバスも走ってはおらず、大時化のアマルフィ海岸を3千倍田舎にしたような、というかほとんど日本の田舎であるが、しかしそれは万博であり、ロンドンであり、それが開催されていることについてわたしは全く疑問を呈さない。五感のみならず記憶の改竄と世界観の飲み込みまで含めたヴァーチャル・リアリティにわたしは為す術無く、しかしその空間においてはほとんど目の前のものを受容する存在として振る舞うさまが不思議である。

目にしたこともない災害。フィルムの中に見たことであり、どれだけ大きい音だとしても耳はキーンとならない程度に抑えられている。私が普段受容しうる感覚の「甚だしさの基準値」のなかに収まりつつも、しかし目の前では人は死ぬ、死んでいるだろうと思う。電車は横転し、またそこに新たな電車が突っ込んでくる。現実世界であれば想像しがたいほどのエネルギーが音に変換され、ほとんど風となった音が板のようになって全身に襲いかかるはずであるが、それは映画館で体感しうるサラウンド程度の大きさになって発生する。

味は時々するし、たまにしない。鼻が効くこともあればそうでないこともある。視覚はかつて失われたことがない。聴覚もかつて失われたことがない。温度は殆ど感じたことがないが、触覚は否定できない。痛みを感じたことがある、落下するような感覚とともに目が冷めたこともある。腹にマシンガンを撃ち込まれ、破れた腸の中に鉛の弾が溜まっていく感覚があったと思えば腹がぐるると言って目が覚めたし、局部を触られるような感覚に襲われたこともある。

とかく展開は不思議なものであり、感覚はぼんやりしている。ぼんやりした感覚は文章に似ている。書かれたものだけが存在する。見たものだけが存在する。聴いたことだけが存在し、思ったことは思ったことの感触として残る。それを書く。まるで酔っ払った日の帰り道のように、改札、財布、ICカード、駅から家への帰り道、鍵、服を脱ぐこと、布団。今まで気づかなかった可愛い看板や道端に捨ててさみしげにしている酒の缶は無視され、なかったことにされ、なかったことにされているのでその存在を私は保証できない。ただ必要なことのみを結ぶ一本の糸を辿るように感覚がある。感覚を書く。

構造素子を読んだ。久しぶりに本を読みました。ちゃんと。なんか嬉しい。