気が気でなければなんなのさ

揉んでも硬くなるばかりでどうにもならぬことだってあるのだ

日記180822

少しずつ去年できなかったことができるようになってきているのは愛らしいことだ。しばらく抜け殻のような気持ちで過ごしていたが、本を読んだり、日記を書いたり、好きに映画を見たり、難しいゲームにチャレンジしてみたり、曲を作ったり、相変わらず一日一日は短すぎてあんまりにも時間がないが、それはそれで満たされていて幸せなことである、と言い聞かせねばならない。

チャンス・ザ・ラッパーと星野源がやっぱり気になってきた。聖なるものへの信仰のあるチャンスと、ただ生活を美しくして、それに執着しようとする星野源(こういうのは簡単なのだが、彼はきっと我々には耐え難いほど忙しく過ごしているに違いないから、これを歌うにあたって実は様々に思うところがあるのではないかと思う)、もしくはジェイムス・ブレイクのDon't miss itだっていいのだが、とにかく日々の隅々に溜まったホコリの中に紛れ込んだふはふはのハムスターをしっかりお風呂に入れて可愛がってやる事が重要なのではないかと思う。

ところで両者に共通するのは底抜けの明るさであって、やっぱりちょっとカラ元気っぽいところである。ケンドリックのオーライでもいいのだけど、そういえば去年の4月、なんのやる気も起きなかった時期にどうにかこうにか動けた日は一日中全く何も食べていない状態であり、まさにカラ元気だったというか、あの頃はカラ元気しか使えるエネルギーがなかったような記憶がある。

どうもあのカラ元気っぷりは自分には表現できる気がしないが、そういうものになんだかんだやられてしまうんだよな、と今年の春頃友人と飲みながら話していたものである。そういえば正直イリーガルな手段で先日放送の「おげんさんといっしょ」を見たら藤井隆が「ナンダカンダ」を歌っていた。00年リリースだけあってなんとなく現在より時代の鬱屈感が薄い気がしていて、2018年にこれは言えないな、という歌詞が多い気がする。「平和ボケしてませんか?」とか、「ほんの少しの気合だ 目を覚ませ泣くな笑え」とか。

聖なるものへの信仰、というまでは多分言わないのだが、この夏数回旅行に行った際神社にお参りする機会が数度あり、その際はお願いしますというよりありがとう御座いますというこころもちであった。今年は大いなる救いの年であったのは確かであるし、モラトリアムのド真ん中にぽっかり浮き上がった空虚感だって、言ってしまえば贅沢なお悩みであるのだ。