気が気でなければなんなのさ

揉んでも硬くなるばかりでどうにもならぬことだってあるのだ

日記181114(話題の気ままな移り変わりと、そこそこのネタバレを含む表現)

タイトルのないブログを延々書いていると当たり前ながらどの日付にどんなことを書いたのかすっかり覚えていないから、後から覗いたときに何がでてくるかわからない楽しみがあり、その5倍くらい不便だし、いちおう公開されている文章だから内容の要約くらいはタイトルにおいておいてもいいのかもしれないと思うものであります。

無機質であることがいいことなのか悪いことなのか、ということは保留にしましょう。

また、一般的に無機質と言われている状態が本来の意味で、本当に無機質なのかということもまた保留にしておきましょう。

それから、先ほどの文章において発生した「本当の、本来の意味とはなにか、もしくはそれ以外の『仮の意味』の発生とは?」という疑問もまた、思い切って保留にしておかなければならないでしょう。わたしたちはこれを本当に惜しんでいます。

なんにしても、キーボードによって打ち出される文字群は比較的、無機質といえる性質を保っていて、これは嬉しく、そして嬉しいときにわたしたちはそれなりのことを見落とします。嬉しいので見落としてもとくに致命的な問題は発生しませんが、見落とすことを嬉しくは思えない人もいます。こうした文章もまた、キーボードの赤軸に被さっているカバーをぱたりこぱたりこと叩くことで、MacBookBluetooth接続されたキーボードが電波を発し、MacBookが今度は無線LANを通じてワールド・ワイド・ウェブの中からすくい上げたはてなブログのページを表示させているので、そのうえに電波が発された順にゴシック体を貼り付け、そうした様がMacBookからHDMI接続されたディスプレイによって可視光線の集まりとしてあらわれ、それをJINSで一万円した眼鏡がわたしの衰えきったピント調整機能を補うように歪めることで、文字としてわたしの前に立ち現れています。たいへん回りくどいことであると思います。

ゴシック体です。ゴシック体が本来の意味でゴシックであるのかはよくわかりませんし、それによって気を悪くするゴート人も、もしかしたらいるのかもわかりません。ドットの集まりであるディスプレイでの表示を前提としたデザインで使われる書体はゴシック体が望ましいと言われています。明朝体では細い横線がドットの隙間に落ちてしまうことがよくあるからだそうです。近頃のスマートフォンは一つのドットが大変に細かくなったので、ようやくWikipediaなんかは明朝体で表示され始めていますね。とにかくゴシック体で、筆で書かれた文字を原型とする明朝体に対して、わたしたちはゴシック体を書いたことはありません。明朝体のようなぴっちりした字を書いたこともないのですが、ゴシック体はなおのことありません。あります。つまらない授業中にノートの端っこに特に意味のない言葉をゴシック体やHelveticaFuturaなどの書体を見よう見まねで落書きするのが好きでした。悪趣味な子供ですね。

先ほどたいへん回りくどく、プラスチックのキーを叩いてから(全く鍵の形をしていないものをキーと呼ぶのも不思議な感じです、セキュリティなど皆無ではありませんか)、画面にゴシック体が表示されるまでの様子を書きました。各部分が器官としてオーガナイズされ、無機質な文字を場合によっては有機ELの画面に映し出すさまは美しく、対して紙と鉛筆の文字はたいへん簡素な仕組みで書かれます。紙は有機物です。黒鉛はほとんど炭素であるにもかかわらず、ほとんど炭素であるがゆえに無機物です。ペンを持つ手は有機物であり、運動して紙に黒鉛をこすりつけますが、運動は乱雑です。よって字はたいへん汚いものになります。マンブルラップのぐずぐずの発音や、イギリスの労働者階級の人々が話す英語のすっ飛んだtのように、様々な部分が有耶無耶にされ、省略され、それでも未だに消しゴムの出番が来ないのは、何となくそれとわかる形がどこかに残されているからです。物事は前後から判断されます。文脈によって判断され、文脈を構成する事実群が更新され任意の事実AがA'として新たな意味を持ったとき、しばしばそれは真実とも呼ばれます。

どこからどこまでのことを「文脈を構成する事実群」として取り扱うべきかはかなり新潮な議論が必要です。それはあれに影響し、あれはこれに影響することで、蝶は大風を起こし、大風は大桶屋を大儲けさせるからそういった影響の網を人間のひとりがすべて把握することはとうてい無理であり、にもかかわらずどうにかこうにかそういったものの中から物語を編むことでしか人間は世界を認識することしかできないのが困ったところです。各々が星空を見上げてはめいめいのオリジナルの星座を生み出しています、さんかく座を見つける人もいれば正二十面体座を見つける人もいるでしょう。二次元として捉えられる天球面の上に立体物を見つけてみたら実際の星々の奥行きを含めた位置関係はもっと奇々怪々としたものになっているに違いありません。

ついに失ったと思えるものはもしかしたら位置関係なのかもしれません。平生光速で8分かかる距離から届く核の炎のエネルギーで洗濯物を乾かしているわたしたちが、それとは逆の反応によるエネルギーの発生と、それに伴う諸現象にかんしてたいへんデリケートになっている、ように見えることは、先日やったデトロイトビカムヒューマンにおいてDirty Bombの訳が「化学兵器」になっていたことからも伺えます。同時に原文の訳も手に入れています。それは表現が表現者の意志とは別の都合によって書き換えられたということをどうしても認識せざるを得ないということですし、あまり良しとしづらいことです。ともあれ、原文の訳を手に入れてしまった以上、そちらを尊重せざるを得ません。

プレイ中、原文がDirty Bombであるのに気づいたのは、あろうことか「化学兵器」が大爆発を起こし、紫よりもっと紫色をした光が街のいたるところを照らしはじめてからでした。そうしてから、「原文を知っていれば兵器の起動をもう少し迷ったかもしれない」と思ったのです。死の街を作るのが毒ガスであろうが放射能であろうが、結果は似たようなものであるはずなのに、後者をどうしても大きく見積もってしまうところに不思議な感覚があります。ぎょっとすることです。タブーと感じることです。それについて語るときには大いに配慮が必要であると感じることであり、ときにそれを避けようとすることです。気持ちのうえではぎょっとしながら、合理的な考えがそれに合致しない時、どうにも居場所のないような気持ちになります。居場所がないのだからGPS上にわたしの位置情報を表示することはできませんし、グーグルマップに目的地との位置関係を元にルート検索をお願いすることもできません。

作中、「化学兵器」の起動は自爆テロとしてではなく、種族としてのアンドロイドの独立と開放へのきっかけとして行われます。その後の人類はそれまでの帝国主義的ともいえる振る舞いをどう振り返るのでしょうか。

日記181027

最近発見したスヌープ・ドッグのゴスペルのアルバムが良くて聴いている、特に7曲目のSavedという曲がよく、曲そのものもいいし、救いというタイトルもいい。みんなで歌ったりみんなで太鼓を叩いたりすると大変うれしくなるな、と思ったことは以前にも書いたけれども、これはこう、どのへんからやってくる感覚なのかは少し不思議に思うところである。しかしあのゲットー出身の、札付きのギャングスタが「Life now is sweet and my joy is complete」なんて歌う曲を出すとは誰が思っていただろうか。ちょっとウィードでも焚いてハイになっていないと書けなさそうな歌詞である。ポッキーのCMに「じょいふる」が使われるこの国ではJoyの恩恵にあずかることそのものが善いとされているかというともしかしたらそうではないのかもしれない。油汚れを落としたり除菌ができることはたいへんな喜びであり、救いであるから、わたしたちはそれを受け入れることが生きる上で肝要なのです。

 

ハロウィンを前にして週末の渋谷は百鬼夜行とはいかないまでも、おおよそ十鬼夜行くらいになっており、コーヒー豆を買い、新型のiPhoneを眺め、一通り酒を飲んでからセンター街に出ると人間や、人間ならざるものや、本来ここにいてはいけないタイプの人間や、人間の文明を象徴するものの一つである衣服の持つ記号性をバグらせた生き物たちがウゴウゴしていた。コンピュータ・プログラムのフリをするものもおれば、一度も死んだことがないのにゾンビになっているものもおり、頭だけ犬になるものもおれば、白衣にSWATの腕章をしてスクランブル交差点を歩いているものもいて、収穫祭の意味合いもケルト民族の考えていた魑魅魍魎どもの面影を一つも残さず木っ端微塵にした要望たちが群れ歩くさまは逆に清々しく、わたしは魑魅魍魎の字をたぶん生まれてこの方一度も手書きしたことがない。

カフェインがなければすっかり動かなくなっている身体に住んでいるものだから、カフェインを摂取するモチベーションを高めなければならず、カフェインの語源であるところのコーヒーを毎日飲んでいると安い豆の不味さが気になってくるものだから、まずは禁煙して「味覚が鈍ってるだけじゃねえのかそれは」という声を黙らせてから安物のコーヒーミルを買い、せっかく渋谷にでたのでヒカリエの下のちょっと洒落た店で、コーヒーも飲まずに豆だけ買い、その後飲みに行って遅く帰ってきたのでその日はコーヒーを飲まないまま眠りにつき、翌日になってお湯を沸かし、ごるりごるりと豆をひき潰し、コーヒーを淹れて飲むまでに7回くらい「これは無駄遣いではない、前からやりたかったし」と唱えた。

ケータイを見に行くとインターネットショップで買うよりずいぶん高く、うっかりおもわず手を滑らせて下取りに出す予定のiPhoneの画面を割りかけながら口を滑らせて「えっそれ店舗で買うのは一体どういうメリットが」と聞いてしまい、「ぶっちゃけ自分で設定できるなら人件費払うだけ損なのでウェブで買ったほうがいいですよ」と言われてやや後悔した。自分がもっと、ほんとうの意味でケータイを必要としている、とおもう、おぼしき、アニメを見たり漫画を読んだりエロ動画を見たりするためではなく、必要不可欠な連絡を取りあうためにもぜひ、現代社会で生き抜くためのインフラとして使い方に不安を覚えつつもおそるおそるケータイに手を伸ばし、そのために手助けを必要としている人々のことを全く考えておらず、あまつさえ引きこもりであるため「まあ数日待つけど出かけなくても家に届けてくれる方がいいじゃん」などと思ってしまっていた自分を割と恥じた。

日記181020

「なんや文章の前後にアルファベットの大文字のLをひっくり返して60%サイズにしたようなのがくっついておるな」

「気づかれましたか」

「お前は誰や」

「お前も何もないでしょう、ここのブログに書き込む権限をもっている人間なんて一人しかいないんですから」

「それもそうやな、ということはこれはアレかいな、落語家が掛け合いをあっちゃこっちゃ向きながらひとりで表現するみたいな」

「改行するたびに口調が変わっているとそう見えますね」

「もしかしたら文章ごとに口調を変えたがるおかしな人かもわかりません、とそういうことやな」

「いま『口調』を打つ時に3回くらい打ち直しましたね」

「うわっなんやそのぶっといやつ気持ち悪っ」

『一般的には二重鉤括弧と言われますが』

「二重もなんも線に囲まれた図形やがな、二重ってのは《こういうの》を言うねん」

「今日はなんですか、〈思ってたけど言わなかったことシリーズ〉ですか」

「なんや音楽レビューサイトでレーベル名を囲ってそうなんを出してきたな君は」

 と、TSUTAYAに行って漫画とDVDを返したそばからまた「逃げ恥」を借りて読むような1日しか過ごしてないわたしはたいへんな茶番からブログを書き始めるのであった。

「どの立場から物言うてんねん」

「わたしじゃないですよ」

「一人称が一緒やがな」

「一人称が同じ人なんてこの世にごまんといるでしょう」

「そんなん言うたかて文章の上やったら区別がつけへんし」

「書き手に至らぬところがあったようですね」

 書き手も何もこのブログを書く権限を持っている人間は一人しかいないという話をつい先ほどしたばかりである。

「そうやったな」

「そうでしたね」

「…いや、もしかしたら何者かにアカウントをハックされているのかもしれません」

「話す順番を入れ替えるなややこしい」

「口調で見分けがつくでしょう」

「ハッキングといえばですね、今アニメもやってるBANANA FISHの原作を読んだわけですけど」

「昨日もその話しとったな」

「あれ1巻が出たのがもう85年なんですよね」

「最初は冷戦の話にしたかったけども途中でソ連が崩壊してえらいことという話が作者あとがきでしてあったな」

「そうなんですけど、当時Win95が出る10年も前なんでGUIなんてあらへんのですわ」

「敬語と関西弁を混ぜるな紛らわしい」

「それでまあ主人公が天才少年なもんですから、コマンドラインに文字をバーっと書いてハッキングするわけですけど、相手サーバに入り込んでこう、打つコマンドが『What is (任意のキーワード)?』っていう、もはやGoogleを通り越して、SiriとかAlexaみたいな」

「もうコンピュータ感がグチャグチャや」

「当時一家に一台どころじゃなかったですからね、仕事じゃないと持ってなかったからまあ事情はわかるんですけど」

 事情と情事はウラオモテである。

「わけわからん上にクソつまらんダジャレを挟んでくるなこの地の文は」

「で、ここからが問題なんですけど」

「なんや」

「今やってるアニメ版が、これが現代版にアレンジされておりまして。こう、原作だと事件の発端にベトナム戦争があるんですけども、これもイラク戦争になったりしている」

「いきなりラジオの書き起こしみたいな文体になってきたな」

「で、こうなると気になるのがこの、ハッキング周りのリアリティなんですね。原作で主人公はもう、ありとあらゆるセキュリティをバンバンブチ破る、まあIQが200という超天才児なんですけれども。このアタマの良さであらゆる暗号を解いてしまって、この暗号も原作だと『パス・ワード(ぱす、なかぐろ、わーど) 』なんてよばれておりまして、非常に微笑ましいんですけれども、とにかくこういうアタマの良さでもってもう、ちょっととんでもないところまでハッキングして、銀行口座をいじるわ、秘密の地図を手に入れるわ、ほとんどデウスエクスマキナ的というか、魔法と同じ扱いをされるれべるで『知り得ない情報を無理やり手に入れる装置』になっているわけです」

「まあそうやな」

「で、どうしてもその無理なハッキングというのは現代版アレンジ、アニメではちゃんとスマホを持っていましたけれども、そういう中では無理が出てしまうんではないかと、わたしこう、非常に心配をしていたわけですね。そうすると、今回はちゃんと現代風になっているということなんですね」

「まあ見てへんねんけどな」

「そういうのを言うのってふつうこういう口調の側じゃないんですか」

「そんな気もするな」

「しかしあれですね、無理やり会話形式にしてみましたけど普通に慣れなさ過ぎて筆を進めていても一向に気の利いた話題とその進め方が思いつかないですねこれは」

「ホンマやで、2000字も使ってしょーもない事しか言うてへんで俺ら」

「俺らって言ったってあなたひとりじゃないですか」

「鉤括弧のあたりからもうちょっと徹底的にメタに走ったらよかったんかもわからんな」

〜ジングル(30秒)〜

「はい、字数は2000字を少し回りました。どこもキー局とせず、全国0局ネットでお送りしている」

「まあネットではお送りしてるんやけどな」

お後がよろしいようで。

「待て待て待てなんもオチてへんわ」

「『お後がよろしいようで』ってこう、『後味スッキリ!』みたいな意味じゃないらしいですね」

「落語の前座の人が『後の人の準備ができました』って言ってつかう台詞やからね」

「我々のあとには誰も準備してませんからね」

「我々もなにもこれ書いてるのんはひとりやねんけどな」

「最近『すべらない話』をちびちび見ているので口語っぽいのを書こうとしてるんですけどね」

「まあ難しいな」

日記181019

たまには関西弁で文章を書いてみたらどないや、と誰かが言っていたような気がしたけれどもここ最近で話した人間なんてdiscordの向こうの高校時代の友達かコンビニ店員くらいしかおらんし、誰もそんなこと言うてへんのやけども、たぶんこれは川上未映子を読んだ影響やなみたいなことを思いながら、ほんならいっちょ書いてみましょかということである。方言は口の、音の言葉であるからこういうのを書くともしかしたらラジオの書き起こしみたいになるかもしれへんし、そういえば今年は主にアトロクの影響やけどもラジオを多く聴く年やった、そもそも前から寝る前には文化放送A&GとかSZBHをきいとったし、それは去年どうにも睡眠に関して問題を抱えていた時期に、聴き流しても何の影響もあれへんような会話を流していると、つまり積極的に気にしないことを求められるような言葉がそこにあると、むしろ音楽を聴くよりもよく眠れるということに気づいたからで、こんな文章も読み飛ばしてもらったらええんかもしれん、俺は寂しいけど。

やっとアニメのテレビシリーズをギャンと観たり、漫画を読み返してみたりする元気が出たのはこの間ソファベッドを買ったからで、それまでは部屋の中でリラックスした姿勢をとるのさえも少し難しかったから脳を動かすにもそれに適した姿勢があるもんなんやなとか思って、それと一緒に空気もどないかしてみましょか、と思ったんで、マッチの匂いが好きだったりおばあちゃん家の仏壇を思い出したりできるような気もしたのでお香を焚いてみたらええ具合なんやけども、これ窓開けてへんとホンマに空気悪なるからこれからの季節ちょっと難しいかもわかりません。で、窓を開けてみたら昨日のラジオの天気予報でも少し寒なるよと言っていた通り気温が下がっとってなんであれば少し冬の匂いみたいなんもしたから、季節の匂いってあると思うんやけど、それ好きかといえばまあ大好きな部類の感覚ではあるもんなんやけど、どうしても時間が経つたびにセンチメンタルになってしまう凡庸な感性の持ち主は複雑な気分にならざるを得なくて、しゃーなし最近ついにちょっと禁煙してたのを中断してそないな雰囲気の中で煙草を吸っておったら目の前に蜂みたいな生き物がおって、飛んでおったらこちらも警戒せなあかんのやけどもそいつがずっと地面のおなじところをぐるぐるぐるぐる回っておるんで、何や東京の空気はやっぱり悪くてどっかおかしくなったんかそれともなんか悩みでもあるんか、聴かせてみいといってもなんも喋られへんもんな君は、と思って眺めていると城崎にての主人公はこういう気持ちやったんかなということをほんのり思わなくもなかった。そんなん言うてもぼくは致命傷を負ったことも現状死の雰囲気がどこにあるというでもなく、僕の代わりに好きなミュージシャンが癌を持っていることを告白していたので、まだ若いし彼女が今なくなるのは僕が死ぬよりはるかにたくさんの人が悲しむ、なにより僕もめちゃめちゃ悲しいし、そんなん比べるもんでもないんやけども、癌が死の病とは言われなくなった世の中でよかった、医療の進歩バンザイと思う。仮に彼女が生きながらえたとしてもしかしたら病床の中で心境の変化があって音楽どころではなくなったり作風が変わるかもしれないし、変わらないかもしれないと思いながらBathsの来日を楽しみにしていたり、星野源が病気で倒れてた頃の曲を散々聴いている。このタイミングで文章やとやっぱり方言は抜けますねと思い直している。

死に追いかけられつづけると云えばまあちょっと機会がありバナナフィッシュの漫画を全部読むなどしたが、これがまあギャングもののサスペンスであり、やく20巻分に渡ってずっと頭のおかしいヤクザ者に命を狙われ続けている、サスペンスがどうしても苦手というのがあってゲームであれば「こっちに操作権を渡すな、ムービーで起こった危機はムービーの中でどないかせえ」と思ってしまったりするところがある、一難去ってまた一難の感覚がやっぱりなかなかどうして苦手であって、それはなんでかというともしかしたらあの暴力のはびこる小学校でいじめっ子が幅を効かせる中油断したらすぐ殴られるんで居場所がなくなってしまったような感覚に似ているのかもしれない。安住の地を求めたいものである、痛いのは本当に嫌。極楽浄土。

というんで魔法少女まどかマギカを観たけど最後の方は仏のことばっかり考えておって、後から調べるとそれは割とメジャーな考えであったというかそういうことを考えてるお坊さんまでおるんやというのでビックリしました。11話あたりからもう般若心経と「非ゼロ和ゲーム」をだれか誰でもええから、できればエビスビーツと堀込高樹がええけれども、とにかく高らかに叫んでくれと思っているとホンマに最後の最後でまどかが成仏したので笑ってしまったというのまである。叛逆は愛の話で、愛というのは厄介なものでトランプを当選させたりもすると東浩紀宮台真司が対談で言っていたのを思い出したりしていた。ポストトゥルースや。いまはもっぱらソウルジェムの仕組みとかが気になっている。

世の中寂しかったり怖かったり悲しかったり忙しかったりでホンマしんどいことばっかりやわと思っている時にミシェルカミロが2008年にドイツで演った「チュニジアの夜」の動画を見るとドラマーがホンマにメチャメチャなソロをやっていて元気が出る。ジャズとかバトゥカーダとか、まあヒップホップでもええねんけどなんであんなに打楽器の音が並んでいると気持ちがポジティブになってくれるんやろうと思いながらよりにもよって「セッション」を観た、ホンマに嫌なおっさんが出てくるし死ねと思うけど音楽がジャズなのでそういうところは救われるし、最後魂を売り渡すのも何かしらの納得というか、ウンムウンムと思いながら観ることができる、スポーツとか軍事モノやったらホンマにブチ切れてるんちゃうかなと思う。うそです。あたしはそんなに心の狭い人間じゃああらしまへん。海のように広い心、茶箱のソファのように深くてふかふかの愛。ピース。

日記181009

布団を買い換えると一緒にうっかりソファベッドを買い生活がいい感じになっている。1万円少しで家に超快適な読書スペースを生成できるし、机の上に置いたモニターを見るにもちょうどいい。あと5年間上で寝続けてへたれてぺなぺな、万年床として風通しの悪い我が家に鎮座していたせいで菌糸類の森、生命の小宇宙と化していた旧敷布団氏のかわりに寝床をふかふかにしてくれる。

10月の日差しにどのくらいの紫外線殺菌パワーがあるのかはよく知らないが今回の敷布団氏には長いことできるだけ長いこと頑張ってもらおうと思い晴れた日はちゃんと干すことにしており、あったかいうちに取り込めばいいものの日々のリズムのダメダメさがたたって昼寝から眼を覚ますとすっかり日が暮れている。寝ることと寝ぼけることで日々を使い果たしていくのは本当にいけない。とにもかくにも冷え切ってしまうために布団を取り込もうと思い集合住宅の玄関を抜けてベランダ風の空き地としか言いようのないマンション1階の物干しスペースに出るとまるで高円寺あたりの居酒屋かもしくは中華料理店のような親しみやすい匂いが漂ってきてはてさてそんなナイスなスポットがこんな近くにあるのかというかこんなに匂いが強いってどういうことだよと思うと同じく一階の別の部屋の玄関から炊飯器が覗いていて一気に生活という感じがしてくる。テレビの音が漏れている。玄関のドアにサンダルが挟まっていて開きっぱなしになっている。別にまずいものを見たわけではないのだがなんだかまずいものを見たような気持ちになり目をそらしたいがそらしたくなくしばらくきらんとひかる炊飯器のボタンのふちの部分を眺めて、金属の振りを一生懸命しているおそらく金属ではない光沢がこうして人の目を惹きつけるのに一役買っているのだなというのは後から気づいたことである。

宗教の勧誘が最近近所をよくうろついておりうちにもここ1週間くらいで2度もきている。そういえば毎日近くの駅前にもいるので近くに拠点があるのかもしれない。入り口として聖書を紹介するのは果たして布教するうえでいい手なのかよくわからないけれども、とにかく聖書推しであり、そこまで言うんなら仕方がねえ読んでやるかなどとは微塵も思わなかったがAmazonKindleストアで十円になっていたので漫画版の新約聖書旧約聖書を読んだ。大学三年の時に教授がユングの神話と物語分析を紹介していたのを思い出した。もっといえば祖母がカトリックだったので実家には新約聖書があったのだけれどもそれにはついに手が伸びなかったなと思う、たいへん字が小さいし、地下鉄サリン事件の年に生まれた感じの宗教観がなんとなく染み付いていたからという気もする。モーセ十戒は世界史の授業で習ったなと思う。「マスター・オブ・ゼロ」の主人公の家には大きくて立派な装丁のクルアーンがあったけれども、もしかしたら我が家は日本では少し珍しい「聖典のある家」だったのかもしれない。

日記180921

なかなか更新頻度を保ちつづけるというのは難しいということを認めなければならない。トピックを作る、書くモチベーションを上げる、そのために環境を変える。掃除をする、コーヒー豆を変える、なにか読んでみる、それからキーボードを変えたりしてみある。

キーボード、変えました。また?また。

家にあるデバイスのことを考えるとどうしてももう一台Bluetoothキーボードが必要であったこと、これから書かねばならぬものが増えること、などなどあれやこれやと理由をつけて(理由なんて最初の一つで十分なのだが)、それからどうせならちゃんとペタペタのではなく箱型のキーが付いたメカニカルが良いなと思い、赤軸かつかなり最小限のキーだけがついたものにした。カタカタ音がなって楽しいが、どうせ家でしか使わないのならもっとペチペチ音のする青軸にしたほうが良かったかもしれない。あと無駄に光ってくれるので暗闇でも問題なく使うことができる。暗闇で使ったことは未だない。

DJをする、展示を見に行く、外出するのは楽しい。映画を見る、ゲームをする、本を読む、ラジオを聴く、家にいるのは楽しい。人とお酒を飲むのだって楽しく、あまりに時間が足りないのは相変わらずである。本当は人生で一番時間のある時期のはずで、世の大学生はもっと退屈していることを考えるとこれはたいへん贅沢な悩みであり、一生モノの悩みであるだろう。

ところで人は人生の三分の一程度は眠っていなければならないことが知られている。どんな活動だって疲れるし、疲れると四肢の倦怠感、眠気、眼精疲労や肩こり、それに伴う頭痛などを生じてまたイブクイックの世話になるハメになる。わたしの母は平生あまり薬に頼らないことを信条としており、基本的には己の自然治癒力でどうにかしようとするところがあった。昨年医者に行って眠剤をもらうことができたのももしかしたら一人暮らしの恩恵だったのかもしれない。そういった状態なので、この前生まれて初めて頭痛薬の世話になった。これが見事に頭痛を吹き飛ばしてくれる代物で、予兆を感じればひどくなる前に対策することが可能になった。これは精神衛生上素晴らしいことである。頭痛で何もできないまま終わった日々を返してほしいと思う。

 

日記180828

面白い夢を見たらメモをとっておくことにしており、たまに見返してはニヤニヤすることにしている。ニヤニヤすることは健康に良い。笑っているからである。昨年医者に行って眠剤を処方されたときに「副作用として悪夢を見ることがあるかもしれません」と言われたことがあり、悪夢にうなされては結局睡眠の質も上がらんではないかと思ったが、まあなんか変なものが見れるのでは良いのではないか、と思って「なるほど了解です」と答えたことがある。

すべてはVR空間にあり、私はわたしであると思いこんでいる上に、この方世を支配してきた様々な法則、規範、制約などに平気で矛盾をきたしているものについて、少なくともその空間にあってはわたしは一切疑問を持たずに、それはそのものであり、当然であるものとして受け取っている。全く聴いたことのない万博がロンドンで開催され、そのロンドンにはビッグ・ベンも二階建てのバスも走ってはおらず、大時化のアマルフィ海岸を3千倍田舎にしたような、というかほとんど日本の田舎であるが、しかしそれは万博であり、ロンドンであり、それが開催されていることについてわたしは全く疑問を呈さない。五感のみならず記憶の改竄と世界観の飲み込みまで含めたヴァーチャル・リアリティにわたしは為す術無く、しかしその空間においてはほとんど目の前のものを受容する存在として振る舞うさまが不思議である。

目にしたこともない災害。フィルムの中に見たことであり、どれだけ大きい音だとしても耳はキーンとならない程度に抑えられている。私が普段受容しうる感覚の「甚だしさの基準値」のなかに収まりつつも、しかし目の前では人は死ぬ、死んでいるだろうと思う。電車は横転し、またそこに新たな電車が突っ込んでくる。現実世界であれば想像しがたいほどのエネルギーが音に変換され、ほとんど風となった音が板のようになって全身に襲いかかるはずであるが、それは映画館で体感しうるサラウンド程度の大きさになって発生する。

味は時々するし、たまにしない。鼻が効くこともあればそうでないこともある。視覚はかつて失われたことがない。聴覚もかつて失われたことがない。温度は殆ど感じたことがないが、触覚は否定できない。痛みを感じたことがある、落下するような感覚とともに目が冷めたこともある。腹にマシンガンを撃ち込まれ、破れた腸の中に鉛の弾が溜まっていく感覚があったと思えば腹がぐるると言って目が覚めたし、局部を触られるような感覚に襲われたこともある。

とかく展開は不思議なものであり、感覚はぼんやりしている。ぼんやりした感覚は文章に似ている。書かれたものだけが存在する。見たものだけが存在する。聴いたことだけが存在し、思ったことは思ったことの感触として残る。それを書く。まるで酔っ払った日の帰り道のように、改札、財布、ICカード、駅から家への帰り道、鍵、服を脱ぐこと、布団。今まで気づかなかった可愛い看板や道端に捨ててさみしげにしている酒の缶は無視され、なかったことにされ、なかったことにされているのでその存在を私は保証できない。ただ必要なことのみを結ぶ一本の糸を辿るように感覚がある。感覚を書く。

構造素子を読んだ。久しぶりに本を読みました。ちゃんと。なんか嬉しい。